madoromism

微睡主義入門

20160113 / 相互理解、という言葉がいかに寝ぼけているかについて

「相互理解、だなんて寝ぼけた言葉を寝ぼけ眼でのたまってる限り、
平和の輪郭だってぼやけたままでござる。」
通りすがりの忍者が言ってた。


・・・やさしさに関する覚書 その68283529・・・

 
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かなしいことは、きっと誤解からはじまる。
誤解は、理解からはじまる。


ちゃんとお話して、すこしずつでもほどいて、やわらかく笑えれば、
かなしいことも減るかもしれない。

 
理解しようとしなくていい。
説明しようとしなくていい。
力になろうと思わなくていい。
擦れて痛い。
  
違うことは明白なのだから、すれ違うくらいでいい。
近づき過ぎると摩擦します。
摩擦、お互いがそれを良しとするならば、素晴らしいことだけど、
お互いに責任をとれないなら、
もっとドライに、現象として、現象のままで。
 
過ぎていくこと。まいにち、新しく、出会うこと。
Nice to meet you.
あなたに会えて嬉しいです。
 
捉える。
把握しようとしない。
執着すると、
囚われる。
 
ぢっと手を見る。 


祈る。

 


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「理解しよう」とした時点で、
そこには「理解してあげよう」というニュアンスが含まれているような。
だってそれは譲歩でしかないからね。
 
もっと噛み砕いていうと、「理解する」という言葉の裏に隠れているのは、
理解できないことを前提においた上で、「自分の理解」の枠内に収めようとする感覚。
だから、それが能動的な行為になった時点でどうがんばっても譲歩にしかならない。
譲歩する、ということは、大人になる、ということなのだろうけど。
(ほんとうの意味での理解はできていなくても、「便宜上」解ったことにして、話を進めるしか無い。)
 
 
だいたい、相互、というからには相手にも自分のことを理解してもらわないといけないわけだけど、
それを許せる人なんて果たしてこの世にいるのかしら?
自分のことなんて自分でも理解できないのに、相手に先に解られちゃったらなんか癪じゃないか?
 
(ここで、「自分のことくらい解ってる」とか
「自分のことは解ってほしいものだ」とかって言える人は、
きっと「理解」という言葉に対して立っているレイヤー(立場)が違うのだと思う。
レイヤーを、階層、と訳してしまうと変に優劣がついてしまうのでレイヤーというほかないのだけど・・・
共通言語、といってもいいな。土俵。
これに関して解説すると長くなるので、次回)
 
 
 
解ろうとしなくていいから、ちゃんとお話しよう。 
 
Nice to meet you.を 「はじめまして」って訳したのは秀逸だなぁと思う。
その時のその人にはその瞬間しか会えないわけで。
通勤するひとは、毎朝「同じ電車」に乗ってると思い込んでいるけど、
その車両は実際には同じではない。
でも、便宜上「同じ電車」っていう。
 
でもまいにち違う。
 
自分の出会うものすべてに、
「出会えて良かった!」ってちゃんと伝えることって大事だなぁと思います。
人に限らず。
 
 
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あぁ、自分ってやつはほんまにボンクラのメクラの節穴じゃわ。
でもココアは美味しいなぁ。
 
ほなまた ~HONAMATA~