20171015 / ファッション自家中毒
>最新のファッションに盲目的に追随する人は「ファッショニスタ」(fashionista)とか、ファッション中毒等と呼ばれる。
>また、ロラン・バルトによれば、さまざまなファッションを着て見せびらかすという営為の体系は、
>さまざまなファッション文をファッションの文法を用いて組み合わせるファッション言語とも見做せる。
営為の体系(・ω・)
(・ω・)(・ω・)(・ω・)(・ω・)(・ω・)
電車の座席に陳列されし人々。
どこかに出荷されてゆく人々。
ファッション達。
彼らが身に付けているものは、すべて彼らが「選びとった」ものだ。
逆に言うと、彼らは、「彼らが選び取ったものによって構成されている」。
自分自身を守るために、存在の虚ろさを埋めるために、
存在の妥当性を証明するために。
モノを所有し、外側に向けて発信/表現する。
ドレスコードは、界隈に由来する。
界隈論。
自分が自分となるために、
行きたいところに行き、会いたい人に会い、
「ありたい姿(理想)」に近づくために、
外皮を選びとり、代謝を繰り返し、消費し続ける。
あなたは、どの界隈にコミットするのか。
あなたは、何に価値を感じているのか?
あなたが費やす時間が、あなたそのものである。
すべてのコストは「時間」に還元される。
資源は、時間は、人生は、
どうやら有限らしい。
あなたは、何を選び取るのか?
相似系の人類。
界隈性に依存し、既存の単語を自分なりに組み合わせつつも界隈の文法で喋り、
「結局は何かを模倣し続けることしかできない」ということに気づいてしまった人々は、
「自分が代替性のきく(代わりの居る)存在なのではないか?」という不安を常に背後に携え、
うなじのあたりをヒヤッとさせている。
それは時に、劣等感やジェラシーとなって脳髄を狂わせるだろう。
わたしは、消費行動に没頭できない。
そういったもので外皮を仕立てることに、
どうしても価値を感じられない。
「美意識」はすばらしい、一つの価値だと思う。
「こだわり」「ポリシー」ともいえるだろう。
できることなら美しくありたいと思う。否定するつもりはない。
ただ、それと消費行動が自分の中で結びつきづらい。
おそらくはもっと別のことに時間を使いたいのだ。
化粧品売り場の前に立ち、
服屋さんの中に立ち、
くらくらと目眩をさせながら、
底無しのような「理想の沼」の、「自意識の海」の、縁に立って、
向こう岸の虚空を眺めている。
私はきっといつまでも垢抜けないだろう。
評価されるには遠い、効率の悪いことをしているように見えるだろう。
ただ、電車で目の前に座っているひとや、
目の前で一生懸命なにか喋っている人を、
その向こうの虚空を見ている。
ひとびとが「便宜上」見て見ぬふりをして通り過ぎていくそれを。
界隈論。
もう少しで何か見えそう、もう少し。待ってて。
選び選ばれて生きるのさ( ˘ω˘ )
選んでいるようで選ばされてはいないか。
それは、自分のカドをすり減らすことになる。
うまいことばで正当化しながら周りに流されてはいないか。
易きに流れてはいけない。
なあなあで選んで選ばれて、馴れ合って、
虚を埋めるためだけの付き合いをしていないか。
そうではない、
がっちりと、ピースがはまる瞬間を求めて、
選ばれるべくして選ばれるために、
重力に逆らい、
カドを磨き続けるのだ。
今は、まだ。それが許される限りは。