20170620 / 夏に至る病
最近つつじが好きになってきた。
幼少期よりこの間までは、あのべったりとした色彩といい、
どこにでもいる凡庸さといい、
誤解を恐れずに超平たく言うと「バカっぽい感じ」がしてあんまり好きじゃなかった。
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他人というのはえてして無意思に映るものだ。
バイトであちこちのホテルに派遣され、
さまざまな若者の集団といっしょに仕事をすると、
たまにめちゃくちゃ「意思のなさそうな大学生」に出会ってドキドキすることがある。
目に光が入っていないというか、顔に生気が宿っていないというか・・・
(もちろんわたしも相手にはそう見えているのかもしれない)
だけど、終業後に窓のない食堂でごはんを食べながら話をきいていると、
やはり彼らには彼らの考えがあって、彼らの感性がある。
嬉しくなる。
当たり前だけど・・・忘れがち。
凡て、非凡である。
小学生の頃、遠足や校外学習などで、他校の小学生の集団を見た時。
彼らはやけに不気味な存在に映ったものだった。
なぜだか不可解で攻撃的で無意思に見えた、彼らの中にも、
「しっかりもの」とか「いじられキャラ」とか「スポーツ得意な子」とか、
わたしたちのがっこうにあるそれと相似形の「役割」がそれぞれにあり、
「彼らの社会」が、わたしのあずかり知らないところで運営されているのだと思うと、
子供心に妙な気持ちになったことを思い出す。
「大衆はバカ」という言説は
頭のかしこい方々がもっともらしくまことしやかに、声高に囁いているが、
果たして大衆とは・・・・・・・・・・・・・?????????
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いや、つつじ(躑躅)の語源やばすぎるやろ。
白いつつじの、雨に濡れて悦ぶ姿がよき。
なんともいえないまだらな花の付き方もよいね。
なんだろう・・・最近、
世の中の有象無象がえらく緩慢にみえる・・・。
これはおそらく、世の「ストーリーライン」のようなものから自分自身が「脱線」してそのまま浮遊しているからなのかもしれない。
たとえば芸大でおべんきょうしていた頃は、常に「制作をするのが正義だ」というストーリーラインがあった。
また、「普通じゃない方が良しとされる」というストーリーラインもあった。
しかしいざ離れてみると、芸大で良しとされていたそういう価値基準、及び「正義」は、
ひどく遠い世界の出来事に思える。
芸大の内部というのは、いわば「個性的」がインフレを起こしているような状態である。
中にいた時から、「これは界隈の出来事なのだ」と感じていたが、離れてみるとやはりそれは如実であった。
(もちろんそれは「全体の空気」の話であって、個人個人の性質とは関係ない)
他の界隈や広義の界隈(若者たち)でもそれは同じで、
「東京に行くのは偉い」「留学するのは偉い」「メディアに出るのは偉い」
とか、なんかそういうストーリーラインがなんとなく空気として存在している。
いや、別にストーリーライン自体が悪いとかではないんだけど!(重要)
批判すべきは、ストーリーラインをなぞること自体が目的となってしまう現象であり、
界隈における正義が達成されなかった時に漂う暗黙の断罪やそれによって起こる劣等感などである。
緩慢、というのが意味としてあってるのか微妙なところだけど、
今のところ緩慢という語彙がしっくり来る・・・
おそらく、暗黙のストーリーラインに関して、
10だけ聞けば分かる話を向こうが1から10まで全部話してくれる、というのと同じ類の
緩慢さを感じているのかもしれない。
「芸大って、個性的な人が多そうだね!」
と無邪気に言われると、わたしは目と耳と鼻から血が出そうになる。
ああ・・・1から10まですべて話さないといけないのだろうか・・・・・・・・?
その先の圧縮された時間、及びこれまでの圧縮された考えと瞬時に同期し、ゆっくりと時が流れる・・・。
(そして私は貝のように沈黙する・・・・・・・。)
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研究者の友人が、
「博士論文以下の文章はもう読みたくない」というようなことを常々言っていて、
最初は「はぇー・・・」と思ったけれど、
最近ちょっとなるほどなぁと思うようになってきた。
その分野を選び取り、「プロとして」考えている人たちにとって、
さんざん考え尽くしてきたようなことを、ぽっと出の浅い言葉で語られても、
沈黙以外の回答がなくなってしまうのだ。
議論の俎上。
アカデミズムの俎上において、個人的な印象を一般化することには注意が必要である。
ただ単に所感や印象を並べるだけなら、「せやな」で終わってしまう。
それが抽象的なことであれ具体的なことであれ、
なにかを証明しようと思ったら、緻密に緻密にその中身を刻んでいく必要がある。
そういうプロセスを踏んできた、また日常的に踏み続けている人たちにとって、
わたしの挙動は緩慢に見えるのかもしれない。
あの時に感じた風通しの悪さのようなものの正体が、ちょっと腑に落ちた気がする。
きっと、所感の脆弱さという問題にはとっくの昔にぶち当たったような人たちだったのだろう。
さて、わたしのやりたいことというのは「証明」なのだろうか・・・
考えるのはたのしい。
所感は無数にある。やりたいことも。
もっと明朗に紡ぎたい。
明瞭で朗らかでドライなことばを・・・
今はまだ、不鮮明で輪郭があやふや、
浅瀬でぴちゃぴちゃと飛沫を飛ばしているような。
A.京都府立図書館の中庭
ブログを毎日書こうと思ったけど綺麗に3日で終わっててズコー
時間がかかるので「ブログ書いてる暇があったら・・・」という問題が(深刻)