madoromism

微睡主義入門

20170620 / 夏に至る病

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最近つつじが好きになってきた。
幼少期よりこの間までは、あのべったりとした色彩といい、
どこにでもいる凡庸さといい、
誤解を恐れずに超平たく言うと「バカっぽい感じ」がしてあんまり好きじゃなかった。






他人というのはえてして無意思に映るものだ。

バイトであちこちのホテルに派遣され、
さまざまな若者の集団といっしょに仕事をすると、
たまにめちゃくちゃ「意思のなさそうな大学生」に出会ってドキドキすることがある。
目に光が入っていないというか、顔に生気が宿っていないというか・・・
(もちろんわたしも相手にはそう見えているのかもしれない)

だけど、終業後に窓のない食堂でごはんを食べながら話をきいていると、
やはり彼らには彼らの考えがあって、彼らの感性がある。
嬉しくなる。
当たり前だけど・・・忘れがち。


凡て、非凡である。


小学生の頃、遠足や校外学習などで、他校の小学生の集団を見た時。
彼らはやけに不気味な存在に映ったものだった。

なぜだか不可解で攻撃的で無意思に見えた、彼らの中にも、
「しっかりもの」とか「いじられキャラ」とか「スポーツ得意な子」とか、
わたしたちのがっこうにあるそれと相似形の「役割」がそれぞれにあり、
「彼らの社会」が、わたしのあずかり知らないところで運営されているのだと思うと、
子供心に妙な気持ちになったことを思い出す。


「大衆はバカ」という言説は
頭のかしこい方々がもっともらしくまことしやかに、声高に囁いているが、
果たして大衆とは・・・・・・・・・・・・・?????????





いや、つつじ(躑躅)の語源やばすぎるやろ。

ツツジ・躑躅(つつじ) - 語源由来辞典




白いつつじの、雨に濡れて悦ぶ姿がよき。

なんともいえないまだらな花の付き方もよいね。




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なんだろう・・・最近、
世の中の有象無象がえらく緩慢にみえる・・・。

これはおそらく、世の「ストーリーライン」のようなものから自分自身が「脱線」してそのまま浮遊しているからなのかもしれない。

たとえば芸大でおべんきょうしていた頃は、常に「制作をするのが正義だ」というストーリーラインがあった。
また、「普通じゃない方が良しとされる」というストーリーラインもあった。
しかしいざ離れてみると、芸大で良しとされていたそういう価値基準、及び「正義」は、
ひどく遠い世界の出来事に思える。

芸大の内部というのは、いわば「個性的」がインフレを起こしているような状態である。
中にいた時から、「これは界隈の出来事なのだ」と感じていたが、離れてみるとやはりそれは如実であった。
(もちろんそれは「全体の空気」の話であって、個人個人の性質とは関係ない)

他の界隈や広義の界隈(若者たち)でもそれは同じで、
「東京に行くのは偉い」「留学するのは偉い」「メディアに出るのは偉い」
とか、なんかそういうストーリーラインがなんとなく空気として存在している。

いや、別にストーリーライン自体が悪いとかではないんだけど!(重要)

批判すべきは、ストーリーラインをなぞること自体が目的となってしまう現象であり、
界隈における正義が達成されなかった時に漂う暗黙の断罪やそれによって起こる劣等感などである。





緩慢、というのが意味としてあってるのか微妙なところだけど、
今のところ緩慢という語彙がしっくり来る・・・

おそらく、暗黙のストーリーラインに関して、
10だけ聞けば分かる話を向こうが1から10まで全部話してくれる、というのと同じ類の
緩慢さを感じているのかもしれない。

「芸大って、個性的な人が多そうだね!」
と無邪気に言われると、わたしは目と耳と鼻から血が出そうになる。
ああ・・・1から10まですべて話さないといけないのだろうか・・・・・・・・?
その先の圧縮された時間、及びこれまでの圧縮された考えと瞬時に同期し、ゆっくりと時が流れる・・・。
(そして私は貝のように沈黙する・・・・・・・。)





研究者の友人が、
「博士論文以下の文章はもう読みたくない」というようなことを常々言っていて、
最初は「はぇー・・・」と思ったけれど、
最近ちょっとなるほどなぁと思うようになってきた。
 
その分野を選び取り、「プロとして」考えている人たちにとって、
さんざん考え尽くしてきたようなことを、ぽっと出の浅い言葉で語られても、
沈黙以外の回答がなくなってしまうのだ。

議論の俎上。

アカデミズムの俎上において、個人的な印象を一般化することには注意が必要である。
ただ単に所感や印象を並べるだけなら、「せやな」で終わってしまう。

それが抽象的なことであれ具体的なことであれ、
なにかを証明しようと思ったら、緻密に緻密にその中身を刻んでいく必要がある。
そういうプロセスを踏んできた、また日常的に踏み続けている人たちにとって、
わたしの挙動は緩慢に見えるのかもしれない。


mukujarakeeee.blog.fc2.com


あの時に感じた風通しの悪さのようなものの正体が、ちょっと腑に落ちた気がする。
きっと、所感の脆弱さという問題にはとっくの昔にぶち当たったような人たちだったのだろう。





さて、わたしのやりたいことというのは「証明」なのだろうか・・・



考えるのはたのしい。
所感は無数にある。やりたいことも。

もっと明朗に紡ぎたい。

明瞭で朗らかでドライなことばを・・・


今はまだ、不鮮明で輪郭があやふや、
浅瀬でぴちゃぴちゃと飛沫を飛ばしているような。



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A.京都府立図書館の中庭



ブログを毎日書こうと思ったけど綺麗に3日で終わっててズコー
時間がかかるので「ブログ書いてる暇があったら・・・」という問題が(深刻)

20171015 / ファッション自家中毒

>最新のファッションに盲目的に追随する人は「ファッショニスタ」(fashionista)とか、ファッション中毒等と呼ばれる。
>また、ロラン・バルトによれば、さまざまなファッションを着て見せびらかすという営為の体系は、
>さまざまなファッション文をファッションの文法を用いて組み合わせるファッション言語とも見做せる。


営為の体系(・ω・)


(・ω・)(・ω・)(・ω・)(・ω・)(・ω・)



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電車の座席に陳列されし人々。
どこかに出荷されてゆく人々。

ファッション達。


彼らが身に付けているものは、すべて彼らが「選びとった」ものだ。

逆に言うと、彼らは、「彼らが選び取ったものによって構成されている」。

自分自身を守るために、存在の虚ろさを埋めるために、
存在の妥当性を証明するために。
モノを所有し、外側に向けて発信/表現する。
ドレスコードは、界隈に由来する。


界隈論。


自分が自分となるために、
行きたいところに行き、会いたい人に会い、
「ありたい姿(理想)」に近づくために、

外皮を選びとり、代謝を繰り返し、消費し続ける。


あなたは、どの界隈にコミットするのか。



あなたは、何に価値を感じているのか?



あなたが費やす時間が、あなたそのものである。
すべてのコストは「時間」に還元される。


資源は、時間は、人生は、
どうやら有限らしい。



あなたは、何を選び取るのか?





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相似系の人類。

界隈性に依存し、既存の単語を自分なりに組み合わせつつも界隈の文法で喋り、
「結局は何かを模倣し続けることしかできない」ということに気づいてしまった人々は、
「自分が代替性のきく(代わりの居る)存在なのではないか?」という不安を常に背後に携え、
うなじのあたりをヒヤッとさせている。

それは時に、劣等感やジェラシーとなって脳髄を狂わせるだろう。





わたしは、消費行動に没頭できない。

そういったもので外皮を仕立てることに、
どうしても価値を感じられない。

「美意識」はすばらしい、一つの価値だと思う。
「こだわり」「ポリシー」ともいえるだろう。
できることなら美しくありたいと思う。否定するつもりはない。
ただ、それと消費行動が自分の中で結びつきづらい。
おそらくはもっと別のことに時間を使いたいのだ。


化粧品売り場の前に立ち、
服屋さんの中に立ち、
くらくらと目眩をさせながら、

底無しのような「理想の沼」の、「自意識の海」の、縁に立って、
向こう岸の虚空を眺めている。




私はきっといつまでも垢抜けないだろう。

評価されるには遠い、効率の悪いことをしているように見えるだろう。


ただ、電車で目の前に座っているひとや、
目の前で一生懸命なにか喋っている人を、
その向こうの虚空を見ている。

ひとびとが「便宜上」見て見ぬふりをして通り過ぎていくそれを。




界隈論。

もう少しで何か見えそう、もう少し。待ってて。





小沢健二 - 愛し愛されて生きるのさ






選び選ばれて生きるのさ( ˘ω˘ )



選んでいるようで選ばされてはいないか。
それは、自分のカドをすり減らすことになる。

うまいことばで正当化しながら周りに流されてはいないか。
易きに流れてはいけない。

なあなあで選んで選ばれて、馴れ合って、
虚を埋めるためだけの付き合いをしていないか。


そうではない、

がっちりと、ピースがはまる瞬間を求めて、
選ばれるべくして選ばれるために、
重力に逆らい、
カドを磨き続けるのだ。



今は、まだ。それが許される限りは。

20150215 / つくることは許されている

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「清潔感」はあっても清潔とは限らないよね。 
「責任感」はあるけど責任はとらないぜ。
「個性的」だということは個性を構成する要素には成り得ないのだ。
「自分らしさ」はあっても自分は・・・ウフフフフ。
 
ふふっふ・・・。
 
 
しょ・・・食パンうめえ・・・!!!!!(ぷるぷる・・ぷる)
 
 
 
制作展が終わりました。つやつや。
皆様の作品とてもすばらしかったです。まるだしで、うごうごでした。
 
 
とりあえず、心境、心の境目を言葉にしとこうと思います。
うーん言葉・・・言葉なぁ。
  
ことばを書くのと、写真を撮るのは、似ている。
過ぎ去ってしまうのが惜しまれる、心の機微やせかいの美しさを、すごく簡単な方法で保存しておくための枠。手段でしかない。
言葉の神様は私に微笑んでいる。もう、にっこにっこ、にっこにっこしている。憎たらしくてたまらんです。今に見てろよ。今しか見えねぇ・・・
 
 
今回の作品、というか個人的な営みに近いあれ、
反省はものすごくしていますが、後悔はしていません。
やりたいことをやりたいようにやった結果、色々が迫ってきました。うふふんふーん。 
 
自分が彫刻科にいる意義のようなものがたくさん見えました。
 
作品解説とか書こうとするとまた長くなるので伏せます。ワン 
以下ボヨヨン
  
 
結局のところ、どこまでもことばに囚われていたわけです。
自分のボキャブラリーの枠組みに収めようとしてしまう。
それってものすごく傲慢で、エゴイスティックで、貧しいことです。
 
実は、みんなが無意識のうちにやってしまっている営みでもある。
人と関わるとき、「ヤバイやつ」「オモロイやつ」「まともじゃないやつ」「実はまともなやつ」とか、ことばによってイメージを付着させる。
それは自分にとって「そうあってほしい」その人の姿でしか無いわけで、
けっきょくのところすべての他者は自分の箱庭の登場人物でしか無いわけです。   
 
 
それは決して、わるいことではないのだけれど、ただ。
高校の通学路で、急激に猛烈に感動して、枠を外してまるはだかの世界を見たい!!!!!って思っていたのに。
じぶんで枠にはめちゃってたんだもんなぁ。わははっ!!痛快。ハァハァ
 
 
 
でも、なんちゅーか、つくりながら、「つくることが許されている」ってほんとうにすごいことだと思った。
ひとりで感極まってました。基本的にいつも感極まってますが。
 
うまく言えないというか、言いたくないんだけども。 
生きていいよ!!ってだけですごい贅沢なのに、生きるのに必要ないものを作っていいよ!!って保証されている。これってすげーーーーーーーーー。
うひーーーーーーーーーーー。芸大やべぇ。
 
謙虚にいきたいでごわす。
 



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圧倒的に豊かな構成というものは、ごく自然に無意思に存在していて、実に「ひょん」である。


おさまるべき所におさまるべきものがおさまるべくしておさまっている愛おしさ、そういう光景に出会ってしまった時、ひとは静かに感動する。
それはしばしば、意図的な構成をかるぅ~く超えてしまうのだった。
 
 


じゃあ、「なんのためにつくる」んだろうか?
 
それは「なんのために生きるのか」という命題と同義なのかもしれない。
 
 
言葉にしないほうがすてきなことって多分たくさんある。
コップに入った牛乳と、床にこぼれた牛乳の、どっちが豊かかな?
 
枠にはめる面白さと、はめない面白さ。
用途のある美しさ、用途のない美しさ。 
静かな感動と、熱烈な感動。 
 
 
たぶんまだまだ答えは出ないけど、(出したくないけど)
こんなことで悩めるとはなんてしあわせなことだろう。
  
 
自己満足って、言っちゃったら、なんかさ、終わりやんな。
つくられたものがかわいそうだ。
なんだかんだ言っても、伝えたいんよ、わかってほしいんよ、ひとに自分の存在を感じてもらいたいんよ。
 
 
「山月記」の李徴さんの姿がちらつく。
 
 
わたしは自らを豊かにするために生きる。
そのためには、ひととともに生きる必要がある。
学ぶことは楽しくて嬉しい。
人の間に生きるよ。 
 
  
 
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ちょっと話がずれるけども、 
 
「重力に負ける瞬間」ってあるよね~~~。
 
ほんとうにちょっとした出来心で妥協したことが、
すこしずつすこしずつ自分の足元に降り積もっていて、気づいた時にはにっちもさっちも動けなくなっていることがある。
 
ことばはおそろしい。ことばはシステムをつくる。自分の作ったシステムに溺れる。
 政治家さん・・・!うああああっ。国家神道。うあうあうあ。ナチス。あはああああ。
 
わるいひとなんていないんだ。
 
 
目的と手段の関係を見失うこと。
手段にばかり目がいって、目的が見えなくなっていることがほんとうに・・よく・・ある・・・。
その構図を認識できるかどうかが鍵やねん。
めためたメタ認知。
  

 
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それにしても。不必要なことばかりぺらぺらと喋る奴っているよなぁ。まぁ自分なんだけど。
不必要と無駄は違う。無駄はすばらしいが、不必要は野暮。
ことばは大切に使いたい。
ことばをちゃんと、丁寧につかえるひとが、とても、好きだ。
 
他者への批判は同時に自己批判であるべきだし、
自信は周りを信じることによって成り立つべきものである。
 
 
 
うわわ、またしゃべりすぎました。いや~ん。
  
「ベシャメルソース」って響き良いよね。最高だよ。調理師免許とりたい。
 
 
明日は搬出!!やったるでぃ!!!!!
2月後半は体の穴という穴からひじきが噴き出そうなくらい会いたい人がたくさん居ます。
朝昼夜ご飯にいきましょう。
 
ってなんか毎回言ってる気がする 
 
Say!!ホ~ォ(ホ~ォ)


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20160113 / 相互理解、という言葉がいかに寝ぼけているかについて

「相互理解、だなんて寝ぼけた言葉を寝ぼけ眼でのたまってる限り、
平和の輪郭だってぼやけたままでござる。」
通りすがりの忍者が言ってた。


・・・やさしさに関する覚書 その68283529・・・

 
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かなしいことは、きっと誤解からはじまる。
誤解は、理解からはじまる。


ちゃんとお話して、すこしずつでもほどいて、やわらかく笑えれば、
かなしいことも減るかもしれない。

 
理解しようとしなくていい。
説明しようとしなくていい。
力になろうと思わなくていい。
擦れて痛い。
  
違うことは明白なのだから、すれ違うくらいでいい。
近づき過ぎると摩擦します。
摩擦、お互いがそれを良しとするならば、素晴らしいことだけど、
お互いに責任をとれないなら、
もっとドライに、現象として、現象のままで。
 
過ぎていくこと。まいにち、新しく、出会うこと。
Nice to meet you.
あなたに会えて嬉しいです。
 
捉える。
把握しようとしない。
執着すると、
囚われる。
 
ぢっと手を見る。 


祈る。

 


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「理解しよう」とした時点で、
そこには「理解してあげよう」というニュアンスが含まれているような。
だってそれは譲歩でしかないからね。
 
もっと噛み砕いていうと、「理解する」という言葉の裏に隠れているのは、
理解できないことを前提においた上で、「自分の理解」の枠内に収めようとする感覚。
だから、それが能動的な行為になった時点でどうがんばっても譲歩にしかならない。
譲歩する、ということは、大人になる、ということなのだろうけど。
(ほんとうの意味での理解はできていなくても、「便宜上」解ったことにして、話を進めるしか無い。)
 
 
だいたい、相互、というからには相手にも自分のことを理解してもらわないといけないわけだけど、
それを許せる人なんて果たしてこの世にいるのかしら?
自分のことなんて自分でも理解できないのに、相手に先に解られちゃったらなんか癪じゃないか?
 
(ここで、「自分のことくらい解ってる」とか
「自分のことは解ってほしいものだ」とかって言える人は、
きっと「理解」という言葉に対して立っているレイヤー(立場)が違うのだと思う。
レイヤーを、階層、と訳してしまうと変に優劣がついてしまうのでレイヤーというほかないのだけど・・・
共通言語、といってもいいな。土俵。
これに関して解説すると長くなるので、次回)
 
 
 
解ろうとしなくていいから、ちゃんとお話しよう。 
 
Nice to meet you.を 「はじめまして」って訳したのは秀逸だなぁと思う。
その時のその人にはその瞬間しか会えないわけで。
通勤するひとは、毎朝「同じ電車」に乗ってると思い込んでいるけど、
その車両は実際には同じではない。
でも、便宜上「同じ電車」っていう。
 
でもまいにち違う。
 
自分の出会うものすべてに、
「出会えて良かった!」ってちゃんと伝えることって大事だなぁと思います。
人に限らず。
 
 
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あぁ、自分ってやつはほんまにボンクラのメクラの節穴じゃわ。
でもココアは美味しいなぁ。
 
ほなまた ~HONAMATA~

20160114 / 寂しさと死について

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暗くて、つめたくて、さみしい時間は、きっと、だれにでもある。
 
でも、みんな自分のさみしさに精一杯で、他人のさみしさには無頓着だったりする。
電車に乗ってるひとたちも、みんなさみしいはずだよ。知らんけど。
テレビの中でなにか怒っているひとたちも、たくさん説明したがる人たちも、わたしにひどいことを言ったひとたちも、みんな、寂しいだけなのだ。知らんけど。
お互い様、とか言っちゃうと、ざっくりしすぎなのかなぁ、、。
 
こころには輪郭がない。でも、あると思い込まないとやってけない。まわりを目に見える事実で囲む。
空洞。
その虚ろさを、便宜上寂しさと呼ぶ。
 
無いものが有る。禅問答。
 
理屈をつけて納得するのは、生きてる人間が勝手にすることだ。
さみしいまま死んでいかないように、こころがあったことを確かめるように、いろいろ理屈をつける。
靖国神社だってそうだ。
 
 
 
李徴氏、寂しかったんだろうか。
うまくお話できなかっただけなのか。

人間ではなくなってしまった。

ヒトとして生まれても、
人間になるのは、ひとりじゃできない。
これは相対的なものだ。人の間にいるのは難しい。
ちゃんと話せれば、きっと人間でいられた。
袁慘、もっと早くきていれば。
 
 
自分の死に対して納得するのはかんたんだ。
絶対的に認識が終了するだけだから。
今夜寝て、そのまま目覚めない可能性だってある。
ただ他人の死に関しては、
相対的な認識が絡まってくるのでややこしく、納得しづらい。

相手に対して自分は人間として存在できたのか?
ちゃんと話せたのか?
いま隣にいるひとに対してはどうなのか?
 
 
実家の玄関を出るとき「気をつけていってらっしゃい」と言われた。
ずっしり重たくて、やさしくて、うつくしい言葉だと思った。
 
 
なんだって、これを投稿するのか。
チラシの裏じゃいかんのか。
きっとわたしも寂しいからですな。
SNSって便利ィ〜
 
 
虎には虎のしあわせが、あるといいなぁ

どっちにしたってわたしには認識できないことだ。
知らない時間に対しては、祈ることしかできない。

20151207 /「例えばためしに、恋、というものの輪郭の縁の外周の周囲をうろうろしてみるとか。」  

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「わたしは美術のことをなんにも知らないのに、
知ったような顔をして、『美術っぽいこと』をやろうとしていたみたい。」
――――――――中略―――――――― 
「例えばためしに、恋、というものの輪郭の縁の外周の周囲をうろうろしてみるとか。」
 
視線どうしがこすれて、じりじり、くすぶって、生ぬるくたゆたった。
眼の奥からみえる光がもう。びっくりするくらいに透明で、
ことば未満を舌の上でうるうると転がすあいだ、
瞬間が、永遠を口に含んでいるみたいで、
ひとつ次元が生まれては、また消えて、
「何も起こらない」。
 
ただ、在ることのうつくしさ。
記述することの野暮ったさ。
 
(ぬう。確かにさっきのは、恋かもしれない。)
 
そんな気がした。
気のせいだった。
  
 
 
・・・あとがき
 
世の中の大概のことは気のせいだから、心配しなくて大丈夫。
 
私たちは当たり前のように、2次元と3次元でものを考えているけども、
実際にはもっともっとたくさんの次元が泡のように生まれては消えているはずなんだ。
それはまだ、人類が言葉で表せない領域のことで、
それに気づいちゃった人は、いっしょうけんめい外堀から記述しようとしてみたり。
 
 
仮に、この世のあらゆる事物、事象が、「座標」によって記述できるとする。
座標と座標をつなぐことで、平面が現れる。
の、はずなんだけど、目的と手段が逆転。いつのまにか、平面ありきの座標。
ついつい、自明の理である「常識の平面上」――たとえばx平面とy平面とz平面――でものごとを考えがちになってしまって、
座標がその「既に知っている平面」に乗っていることを前提に話をすすめてしまいがちなんだ。
 
実際は、座標をつないだときに現れる平面の数は無数にあって、
たまたま「常識の平面」に名前がついていてわかりやすいからそれを採用しているに過ぎない。
けど、もっともっとたくさんの次元があるはずで。
 
あ、座標とか次元とかの話はものすごい感覚的なことで書いてるので、
実際の数学上での定義が違ってたら教えて下さい(ハァハァ
このへんものすごく勉強したい。
 
 
要するに、たまたま認識のピントが合っていないだけで、見えていないものはたくさんある。
だから、今見えているものだけを見て「わかったような顔」をしてしまうのは、勿体ないというものだよねえ。
 
そう、課題にすべきは、「わからない」ことではなく、「わかったような顔をしてしまう」ことなんだ。
「知らない」ことは、課題ではない。「知ったような口をきいてしまう」ことが課題なのだと思う。
課題は良い。課題は、解決できる。
 
っあー、彫刻たのしいよお。
 
  
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ところで私は正しい恋がしてみたい。
 
正しい恋ってなんでしょう・・・?
たぶんだけど、私がたまにもよおす恋のようなものって、
「視線どうしが摩擦して、じりじり音を立てて焦げるのに」
やみつきになっているだけなんだよなぁ。
 
それは自失の歓び。
酩酊。中毒。病気。盲目。
 
いろんなことが、見えすぎて、痛いから、
わざと視界を濁らせる必要があるのかもしれない。
 
もしくは、満たすために、穴を埋めるために、ただ、傾けていたいだけ。
液状のなにかを、どこかに注ぎたいだけ。
感情を消化するのは、たやすいことではないみたいなので、
何か確かっぽいものに仮託するのが一番手っ取り早いんだ。
 
 
まてよ・・・
 
あるいは・・・
 
正しい恋など存在しないのではないか?
「恋である時点でそれは基本的に間違っている。」
うん、しっくり来るなぁ。ふはっ。
 
正しいことが良いとも限らないからね♡
 
 
 
お後がよろしくないようで。立つ鳥が後を立たない。
 
   
 
 
・・・追伸
  
最近皮膚の下に溜まっていたセンチメンタルな膿を出してみました
センチメンタル・ジャーニーとはよく言ったもので、
人生ってヤツぁ誠に、感傷的な旅なんですね・・・。(したり顔
 
自分が21歳の若造ペーペー丸であることをうっかり失念して、
したり顔で「人生は・・・」なんて言っちゃう底の浅さに辟易する毎日です。
なるほどこれがさとり世代か。
なんか意外と人生って長いっぽいので、さとりすぎずのんびり粛々といきたいもんですな。
 
 
要するに、久しぶりに納豆たべたら美味しすぎて戦慄したっていう話です。
 
藤原竜也「なんなんだよコレ・・・なんなんだよォーッ!!!」(C.V.藤原竜也)
 
 
お後がよろしいような気がする。気のせいか。
また後日、よろしくです。



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20171208evernote / 恋とi(虚数)

行為に依存しない恋とは。

語彙に依存しない恋とは。



最近は仏教に思考が偏っているので仏教で例えると、
修行を完遂した「如来」は「愛」する存在であり、
修行の過程にいる「菩薩」は「恋」する存在なのかもしれない。

それほど、私は「恋」に対して透明な理想を傾けている。

「恋なんていわばエゴとエゴのシーソーゲーム」とMターCドレンの人が歌っていたけれど、全くその通りだと思うのだけど、
その中間地点にある、支点、摩擦しているポイントを「恋」と呼ぶならばどうだろう。(何がだろう)




思えば、人生を通じて長らく、
「恋」というものを相手に思考している気がする。

「恋愛」とひとくくりにして扱われるその関数は、
もっとも根源的で、もっとも定義が曖昧で、
にも関わらずみんながそれを曖昧なまま、素手で取り扱っている。(そして火傷している)

たとえば「LINE 既読 スルー 脈なし」なんかで検索をかけると、
恋愛に特化したバイラルメディアなんかがアホほどヒットする。
つまりは皆がそれを求めているということだけれど、
普遍化できないものを普遍化しようとすることほど浅はかな事はなく、
そこに書かれている情報の無責任さに、
わたしは><となって、そっとブラウザを閉じる・・・。





よくよく考えてみれば、
「恋」を言い表す英単語ってないんじゃないか・・・?

それってとても日本的な、デリケートで情緒的で流動的な、
「ハイコンテクスト」な概念であるように思う。
その中には「駆け引き」や「視線の絡まり」などといった要素が含まれていて、
個人的な感触で言うとなんとなく「線状」なイメージがある。こより・・・?
対して「愛」は面的、あるいは空間的なイメージ。

と思ってググってみたところ、
英語圏では、恋も愛も、基本は「Love」で表されるみたい。
どう違いを出すかというと、

▽I'm in love.(私は恋の中にいる。)
▽I love you.(私はあなたを愛している。)

というふうに用法で使い分けられるらしい。
この例文で言うと、恋の"love"のほうが空間的で、
愛の"love"のほうが線的(ベクトル的?)な感じがあるな。

しかし、どちらもけっこう一方的な感じがある・・・
「私はあなたと恋がしたい」とかは言えるんだろうか。
I want to love with you.  ・・・?
最終兵器彼女のコピーで「ぼくたちは、恋していく」っていうのがあったと思うんだけど、あれはどう訳すのかなぁ。
We are loving.   ・・・?
We will walk together to love.  ・・・?
教えてネイティブピーポー

XTCで The Lovingって曲があったな。
あれは「愛」っぽい。
XTCはいいぞ^^



とかなんとか、根本的な方向性の部分で、やはりニホンゴの「恋」と
エーゴの「love」の間には明らかな段差があることを感じる。


一方的な感情ではなく、相補的な営みとして「恋」を見た時、
それが非常に「ハイコンテクスト」であることに気づいた。(昨日。)
どうにかして以下に記述していきたいと思う。






一昨日、友人のS氏と喋っていて、
「新人類」をテーマとして扱うSF小説のあらすじを聞いた。

彼らは、たとえば葉っぱを上から落とすとして、
連続して同じところに着地させることができるらしい。
つまり、自分が手を離す位置、風の向きや葉っぱの形、軌道などを瞬時に「演算処理」して、落とす位置を認識できるのだ。

要は、情報の処理能力が旧人類に比べて異常に高く、
4次元的に物事を捉えることができる。
同じ情報を扱いながらも、
認識能力が一次元上にあるということだ。
旧人類がx,y,zでしか記述できないものを、もうひとつの次元・・・旧人類にとっては考えも及ばないような領域で記述している・・・。

ゆえに、新人類どうしでの会話は、
単語の定義に依存せず会話することができるらしい。

旧人類であるところの我々は、単語の定義に依存する。
平面的になってしまう。



私たちは恋をしているとき、
相手が発した単語を懸命に拾い集めて、
その中身を、意味を、意図するところを、
いっしょうけんめいに探ろうとしているのではないだろうか。

そこで行われているのは、情報の演算である。

その人のことを知ろうとすることは、
その人の価値体系、ものさしを捉えたい、ということだ。
ことばの中身、単語の定義。みたいもの、聴きたいもの。
欲望の演算処理、その方程式。優先順位をはじきだす電卓。
(界隈性に依存する、かも)

捉えようとするとき、そこにはしばしば、というかほとんど偏見が含まれる。
何考えてんのか全然わかんない!となったとき、
バイラルメディアに頼ってしまうこともあるだろう。

相手の発した断片を、
勝手に乱暴に組み合わせて、決めつけ、思い込み、誤解、語弊。
自分の欲する姿を押し付けてしまうことも多い。

「私と仕事どっちが大事なの?」という問いが、
男にとっていかに無意味であるか・・・( ˘ω˘)




相手の言いたいことが、正しく自分の中で繋がったとき。
相手の像を正しく認識できたとき。
パズルのピースがぱちぱちと小気味よく嵌って、
散らかっていた空間に余白ができる。

そこに流れている時間は、とても、とてもとても優しいものかもしれない。

x,y,zの次元を演算した結果立ち現れる、言語では記述できない、
言うなれば、あ、あ、iの次元・・・とか////// 寒^.^

その次元には、おそらく直接アクセス(言語によって記述)することはできない。
膨大な虚数の海。
補集合?


まだ見ぬi次元の証明。

帰納法でいくか、演繹法でいくか・・・ん、弁証法///
それは「相手を知ろうとする」という営みの中に、ほんのりと立ちのぼる嘘の連なり。。。


無知の知。


わたしたちは、何も知らない。

だから、知ろうとするのだろう・・・


ハア~~~尊。。。^.^