madoromism

微睡主義入門

20160114 / 寂しさと死について

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暗くて、つめたくて、さみしい時間は、きっと、だれにでもある。
 
でも、みんな自分のさみしさに精一杯で、他人のさみしさには無頓着だったりする。
電車に乗ってるひとたちも、みんなさみしいはずだよ。知らんけど。
テレビの中でなにか怒っているひとたちも、たくさん説明したがる人たちも、わたしにひどいことを言ったひとたちも、みんな、寂しいだけなのだ。知らんけど。
お互い様、とか言っちゃうと、ざっくりしすぎなのかなぁ、、。
 
こころには輪郭がない。でも、あると思い込まないとやってけない。まわりを目に見える事実で囲む。
空洞。
その虚ろさを、便宜上寂しさと呼ぶ。
 
無いものが有る。禅問答。
 
理屈をつけて納得するのは、生きてる人間が勝手にすることだ。
さみしいまま死んでいかないように、こころがあったことを確かめるように、いろいろ理屈をつける。
靖国神社だってそうだ。
 
 
 
李徴氏、寂しかったんだろうか。
うまくお話できなかっただけなのか。

人間ではなくなってしまった。

ヒトとして生まれても、
人間になるのは、ひとりじゃできない。
これは相対的なものだ。人の間にいるのは難しい。
ちゃんと話せれば、きっと人間でいられた。
袁慘、もっと早くきていれば。
 
 
自分の死に対して納得するのはかんたんだ。
絶対的に認識が終了するだけだから。
今夜寝て、そのまま目覚めない可能性だってある。
ただ他人の死に関しては、
相対的な認識が絡まってくるのでややこしく、納得しづらい。

相手に対して自分は人間として存在できたのか?
ちゃんと話せたのか?
いま隣にいるひとに対してはどうなのか?
 
 
実家の玄関を出るとき「気をつけていってらっしゃい」と言われた。
ずっしり重たくて、やさしくて、うつくしい言葉だと思った。
 
 
なんだって、これを投稿するのか。
チラシの裏じゃいかんのか。
きっとわたしも寂しいからですな。
SNSって便利ィ〜
 
 
虎には虎のしあわせが、あるといいなぁ

どっちにしたってわたしには認識できないことだ。
知らない時間に対しては、祈ることしかできない。