20151207 /「例えばためしに、恋、というものの輪郭の縁の外周の周囲をうろうろしてみるとか。」
「わたしは美術のことをなんにも知らないのに、
知ったような顔をして、『美術っぽいこと』をやろうとしていたみたい。」
――――――――中略――――――――
「例えばためしに、恋、というものの輪郭の縁の外周の周囲をうろうろしてみるとか。」
視線どうしがこすれて、じりじり、くすぶって、生ぬるくたゆたった。
眼の奥からみえる光がもう。びっくりするくらいに透明で、
ことば未満を舌の上でうるうると転がすあいだ、
瞬間が、永遠を口に含んでいるみたいで、
ひとつ次元が生まれては、また消えて、
「何も起こらない」。
ただ、在ることのうつくしさ。
記述することの野暮ったさ。
(ぬう。確かにさっきのは、恋かもしれない。)
そんな気がした。
気のせいだった。
・・・あとがき
世の中の大概のことは気のせいだから、心配しなくて大丈夫。
私たちは当たり前のように、2次元と3次元でものを考えているけども、
実際にはもっともっとたくさんの次元が泡のように生まれては消えているはずなんだ。
それはまだ、人類が言葉で表せない領域のことで、
それに気づいちゃった人は、いっしょうけんめい外堀から記述しようとしてみたり。
仮に、この世のあらゆる事物、事象が、「座標」によって記述できるとする。
座標と座標をつなぐことで、平面が現れる。
の、はずなんだけど、目的と手段が逆転。いつのまにか、平面ありきの座標。
ついつい、自明の理である「常識の平面上」――たとえばx平面とy平面とz平面――でものごとを考えがちになってしまって、
座標がその「既に知っている平面」に乗っていることを前提に話をすすめてしまいがちなんだ。
実際は、座標をつないだときに現れる平面の数は無数にあって、
たまたま「常識の平面」に名前がついていてわかりやすいからそれを採用しているに過ぎない。
けど、もっともっとたくさんの次元があるはずで。
あ、座標とか次元とかの話はものすごい感覚的なことで書いてるので、
実際の数学上での定義が違ってたら教えて下さい(ハァハァ
このへんものすごく勉強したい。
要するに、たまたま認識のピントが合っていないだけで、見えていないものはたくさんある。
だから、今見えているものだけを見て「わかったような顔」をしてしまうのは、勿体ないというものだよねえ。
そう、課題にすべきは、「わからない」ことではなく、「わかったような顔をしてしまう」ことなんだ。
「知らない」ことは、課題ではない。「知ったような口をきいてしまう」ことが課題なのだと思う。
課題は良い。課題は、解決できる。
っあー、彫刻たのしいよお。
ところで私は正しい恋がしてみたい。
正しい恋ってなんでしょう・・・?
たぶんだけど、私がたまにもよおす恋のようなものって、
「視線どうしが摩擦して、じりじり音を立てて焦げるのに」
やみつきになっているだけなんだよなぁ。
それは自失の歓び。
酩酊。中毒。病気。盲目。
いろんなことが、見えすぎて、痛いから、
わざと視界を濁らせる必要があるのかもしれない。
もしくは、満たすために、穴を埋めるために、ただ、傾けていたいだけ。
液状のなにかを、どこかに注ぎたいだけ。
感情を消化するのは、たやすいことではないみたいなので、
何か確かっぽいものに仮託するのが一番手っ取り早いんだ。
まてよ・・・
あるいは・・・
正しい恋など存在しないのではないか?
「恋である時点でそれは基本的に間違っている。」
うん、しっくり来るなぁ。ふはっ。
正しいことが良いとも限らないからね♡
お後がよろしくないようで。立つ鳥が後を立たない。
・・・追伸
最近皮膚の下に溜まっていたセンチメンタルな膿を出してみました
センチメンタル・ジャーニーとはよく言ったもので、
人生ってヤツぁ誠に、感傷的な旅なんですね・・・。(したり顔
自分が21歳の若造ペーペー丸であることをうっかり失念して、
したり顔で「人生は・・・」なんて言っちゃう底の浅さに辟易する毎日です。
なるほどこれがさとり世代か。
なんか意外と人生って長いっぽいので、さとりすぎずのんびり粛々といきたいもんですな。
要するに、久しぶりに納豆たべたら美味しすぎて戦慄したっていう話です。
藤原竜也「なんなんだよコレ・・・なんなんだよォーッ!!!」(C.V.藤原竜也)
お後がよろしいような気がする。気のせいか。
また後日、よろしくです。