madoromism

微睡主義入門

20180501 / vectors to good "work"

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禅寺に住み始めて一ヶ月が経った。

坐禅も念仏も、作務(掃除)も食事も、日々重ねるほどにおもしろくなってくる。

禅のおもしろいところは、教えのすべてが「行」という概念に還元され、
「営み」であり「仕事」として「表現」されるところだ。
また禅語には詩的な表現が多く、美術や建築をも思想が貫いていて、
全体が「粋」な、「美的感覚」に収束していくのもしっくり来る。




手元で完結する小さな「仕事の歓び」たちは、日々の「継ぎ足し」であり、
長期的な充足へと紐付いている。

さて、「長期的な充足」とは。


それはきっと言葉にした瞬間に腐り出す類の定義だから、
不用意にこれだ、と断言すると生ゴミ工場になってしまう。
推して知るべし。

経本をぱらぱらめくってみていると、
妙心寺を開山した無相大師の御遺誡に

>「乞うその本(もと)を務めよ」

ということばがあった。


また、大徳寺を開山した興禅大燈国師の御遺誡にはこう表現されている。

>「汝等諸人、この山中に来って、道のために頭を聚む、衣食のためにすること莫れ。」
>「只須く十二時中、無理会の処に向って、究め来り究め去るべし。」
>「光陰箭の如し、謹んで雑用心すること莫れ。看取せよ看取せよ。」
>「専一に己事を究明する底は、老僧と日日相見報恩底の人なり。」
>「誰か敢えて軽忽せんや。勉旃勉旃。」


うむ・・・ハードボイルドじゃ。







毎朝4時半に起床し、「仕事」が開始される。
念仏、坐禅、作務。

思えば去年の今頃も、 朝4時半に起きて、リッツカールトンに出勤する日々を送っていた。
派遣でホテル配膳バイトをやっていたのだが、
禅寺での作務が、リッツでの業務と同期する瞬間は少なくない。

それはあくまでパートタイムジョブ、細かく切り分けられた下流工程、
いわばラグジュアリードカタだったわけだが、
派遣だろうが正社員だろうが、お客さんにとっては同じリッツカールトンの人間である。

末端の一人一人にも、会社理念の刻まれた「クレドカード」が渡された。
全員がそれをいつでも持ち歩き、諳んじられることが前提である。
http://www.ritzcarlton.com/jp/about/gold-standards
お客さんに見える部分だけでなく、その裏側(バックヤード)も、
すべてがこの「クレド」を志向して動いていた。

お客さんに注文を聞く仕事もあれば、ビュッフェの維持、下げものに食器の拭き上げ、
おしぼりを一時間ひたすら巻き続ける仕事などレイヤーは様々だったが、
すべてが「たったひとつの目標=お客さんの満足」へとドライブしていく感覚、
それが体感できて腑に落ちる瞬間というものがしばしばあって、
その思いやりと優しさに、下っ端として使われながら、目頭がじゅわじゅわしていた。


「ブランド」という長期的な目標。

マクロな目的としての「ブランド」と、ミクロな目的としての「良い仕事」が、
矛盾なくイコールで重なる感覚。






「良い仕事」に必要なのは、「最適化」と「効率化」である。

そのためには、自分の仕事の前後にある仕事、
つまり目的へと紐づくあらゆる役職の仕事について把握する必要がある。

朝食勤務では、毎日ちがう役職にアサインされた。

すべては大きな【構造】(オペレーション)の中に組み込まれている。
バトンタッチされていく業務の中に、自分の手元の仕事の目的と意義が見出され、
「なぜ、それが必要なのか?」「なぜ、そうなっているのか?」
という【構造】が見えてきたとき、
「相手がどうしてほしいのか、自分はどうすれば良いのか」
というのを志向できるようになってくる。
仕事は自ずと美しさへ向かう。


【構造】への希求があってはじめて、
「最適化」と「効率化」にベクトルを向けることができ、
結果として思いやりと美しさを帯びた「良い仕事」を生み出すことができる。





それは、自分の仕事が自分だけの力で動いているものではないと知ることだ。

自分が、自分のためにはたらいているのではないと知ることだ。

広大な禅寺を雑巾で拭きまくったり、敷地内の落ち葉を掃き清めたり、
まいにち大量にコンニチワする雑草たちを根こそぎ除きながら、
自分を取り巻く世界には日々ものすごい量の「埃」が積もり、
「垢」が発生しているということを実感する。

寺院という構造を維持するのは、ものすごく大変なことだ。
みえている景色は、水面下にある際限ないメンテナンスによって営まれている。

わたしは散漫で緩慢な人間なので、雲水にいつも
「ちんたらやっていると終わらない。」とどやされる。
リッツで働き始めた当初も、先輩からいつも
「その三倍早くやって!」と言われていたことを思い出す。
とくに繁忙期の朝食勤務は激務で、スピードと正確さは満たすことが前提だった。


良い仕事は常に、最適化と効率化を志向する。


自分を動かしている世界の構造について知る。


たとえば【構造】を【理】と言い換えるとどうだろう。


日々のメンテナンスの中で、【理】のサイクルを知ること。
それは「生成消滅との対峙」であり、「生老病死に対する納得」のプロセスである。
掃除や食事は、そのための具体的な手段であり、
坐禅や念仏はそれらによって得た萌芽を抽象化・概念化する手段のひとつであるというふうに感じている。

まぁ禅については結局のところ「何を書いても嘘になってしまう」わけですがね・・・。





なにをかくそう、禅寺に住み始めたのである。
正確にいうと寺格を持たない道場なので、寺ではないのだが、
まぁそんなことはみみずの剛毛よりもどうでもいいことだ。(いっけねみみずの剛毛わりと重要じゃん)

寺ではないので宗派には属していないが、
主としているのは公案を参究する【臨済禅】で、
わたしの指導をしてくれている雲水も臨済宗妙心寺派のベテラン僧侶である。

なによりも掃除の仕方において、学ぶことが多い日々。



はっ・・・20歳のわたしの鳴き声がきこえる・・・
nukarumadoromi.hatenablog.jp

かねてより禅の生活を営みたいと思っていた私にとって、
この環境は願ったり叶ったり、祈ったり拝んだり、
それでもって望むところなのである。


引き続き営んでまいる所存。


20150506「安い女の宴は姦しい」〜20141027

 

女女女。


洗濯物を干しながら、食器を洗いながら、
穏やかに自戒する・・・

女を安売りしてはならない。


さて安売りとは

 

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わたしは性の問題に関して、
女だからどうとか、男だからどうとか、
そういう文脈で語りたいわけではない。

女性的であるとはどういうことか、男性的であるとはどういうことか、
自らの構成要素を分解してみたいだけなのだ。

 

 

 

女であることを気にかけている時点でそのへんの女以上に女だし、
抵抗すればするほど重力に足をとられることはそろそろわかってきている。


だから、女について考えることは、
女として生きるということと真摯に向き合うための営みなのである・・・
うんぬん。まごうことなきうんぬん。


ただもし男に生まれていれば、
「男として生きるということと真摯に向き合う」なんてそんなこときっと考えないよね。
フシギだあ。


京芸生は8割が女の子なわけだけど、たぶんそのうちの7割くらいはジェンダーに対して何らかの問題意識を抱えていると思われる。(適当)

ゲイジュツをするということは、アイデンティティを問い直し続けるという側面があると思うのだけど
女性のアイデンティティの中に女という性が占める部分が大きいのか・・・


つまるところ


女は、人間である以前に女なのかもしれない

男は、男である以前に人間なのかもしれない

 

イヤーンものすごく誤解を生みそうな言い回しイヤーン!


女性は、常に定義されることを求めている。
自分がどこに存在していて、相手に対してどういう存在なのか、

確かめ続けることに対して余念がない。虚。

 

 

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さて、自分が男でないことが悔しく枕をずぶずぶに濡らした思春期は終わり、
スナックで働いてみて、自分が女であることをひとつの価値として認め始めたわけですが、
受け入れることと開き直ることは似て非なるわけだけれども、

あゝ自戒・・・。

 


もし、女であることを憎むならば、
それと同等かもしくはそれ以上に、女であることに救われているはずだと思う。


安売りする、というのは、女であることに溺れることを意味する。
存在価値とかそういうところに重心を置いてしまうと、そいつに足を取られる。
思考停止。
なにかがみえなくなる

 

大事なのはきっとそういうことじゃないんよな・・・。

 

自らの価値を誇示しようと躍起になること自体が、
自らの価値を貶めているということを
淡々と自覚すべきである。


優しさとはなにか。

それは、だれのためにあるものか。

 


改めて、姿勢を正す次第であります。

 

やらかくいこか~

 

飽きたのでおわる
特筆すべきことは、サタデーナイトフィーバーが意外としょっぱい映画だったことくらいか・・・。

 

 

 20141027


疑似恋愛というやつは、誇りを壊死させる行為であるように感じる。
 
思想も人格も投げうって、
人間を穴と棒だけの関係に還元する。
男と女のラブゲーム、ってやつか。
 
そこではすべての事象が下半身を中心に展開する。
 
とは言っても擬似って定義できる時点で、どちらか一方もしくは両方が、
その馬鹿らしさに気づいていて、心の奥底で自身を冷笑している場合がほとんどかな。(詠嘆)
 
「男は馬鹿な生き物」って言う人がいますが、
「女も馬鹿な生き物」だと思います。
 
というより、「男」とか「女」とかいう本能的動物的概念が、
その人自身の人格や思想(=誇り?)よりも先立ってしまった時点で、
俗に言うただの「馬鹿な生き物」になってしまう。
 
なんかそういうのを超えたところにあるのが本当の恋愛なんじゃないかなぁ。ってなんかしみじみと思った。本当ってなんだ。
というか、世間様が決めているであろう「恋愛」という謎の制度を自分たちが愚直に演じている事、を、自覚してみると、オモシロイ。
世に氾濫する、恋愛とよばれてるやつのほとんどは疑似恋愛なのかもしれない
 
べつに、変に文化的であろうとするのが良いわけでもないけど。


 
 
スナックで働いてると、色々思う所あるわけで
 
汚い部分とか、結構、見えたりして、うっ、てなることもあるけども、
だからこそ朝の美しさがより際立って見える。
良い意味でも悪い意味でも、生々しい「セイ(生あるいは性)」を感じます♨️

 
  
 

20141126 地によって図を描く

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"As long as human beings are living between people,
  Life as "Normal", does not exist."
『私達が人の間に生きている限り、人生に"普通"なんてない。』
              ~Chika Tsujison(1994~2095)
 
 
アタリマエのことをさも名言かのように書いてみるシリーズⅡ。
さぁみんなもLettsu torai!
 
Ⅰ探したらちょうど一年前くらいで、まだ10代だったわたしの文章はスッキリと短かった。あれ?
壊れそうなものばかり集めてしまう季節は終わってしまったよ。
もう、ハキダメみたいなところにあぐらをかいてニコニコしている。
 
まじで「普通の人生」なんてないよなぁ~って思ってる最近…
人に歴史あり。
みんながみんなヘンテコリン
むしろ自分のこと「普通」と思ってる奴のほうがわたしは変だと思うんだよなぁ。
 
ひとりひとりにフォーカスすれば、「薄っぺらい奴」なんていないと思う。
ことばが薄っぺらくなる時、それは大抵の場合「自分の言葉」ではない。
それって誰かから借りてきた言葉や、誰かのために作った言葉なんじゃなかろか。
正直に、自分の堆積させてきた内側から染み出てくることばで話すのが一番オモシロイと思うんだな。うーーんムツカシカ?
 
 
その人の発するすべての言動は、
その人の積み重ねてきたすべての経験に由来する。 
 
だから、その人の言葉の裏にあるバックグラウンドを100%知らない限り、100%理解することはできない。わたしたちは解釈するに過ぎない。
「理解」ということばを安易に使うことも憚られるよーな気がした。
understand、足下、地面、とーだいもとくらしー、stand by me.
せいぜいI see. 
 
 
 
どうでもいいんですけどこないだ坐禅してきました
なんか素人でも坐禅させてもらえる寺があるって聞いて早朝いそいそと行ったんですが
寺の中で見事に迷いましてズンヌゥ~あっ!間に合わない!
  
とはいえ早朝の大徳寺は素晴らしく。紅葉と松と石のコントラストがすばらし。
徘徊していると作務をしている修行僧の方がいらっしゃいまして
はっ、そうか、観光客になったって意味ないぞ と
 
 
適当に入った院にて
「学生でお寺入って修行ってできるんですか?」と聞いてみたところ、渋い顔。
 
「できるけど、オンナノコを受け入れている所は基本的に少ないよ。」
「あが。」
 
 にくそん は めのまえ が まっくら に なった!
 
「女性は基本的に食事を作ったり台所の掃除をしたりやね」
「ぬぎゅぎゅぎ、すここ」
「やっぱりオヤゴサンもシンパイしはるからねぇ」
「うぎごぐ、のご」
 
 
あ、逃れられぬ。そう、そうなのね、
わたしたちは肉体的経験によって深くて熱い部分に触れることはできないのか。
 
あぁあ、ちがうんだ、そういうことじゃ、ないんんだ
別に男性の真似がしたいわけではないんだ。
私はもう紛れも無く女であることを自覚しているから
ただただ羨ましいだけなんだ、ノドチンコがねじ切れるほどに。
汗臭さが泥臭さが飾らない美しさが
いいいなぁああぁぁあぁ。
  
 
「のしょしょ、うぺ・・・」とかなんとか言ってくねくねしてたら
親切にも坐禅のやり方を教えていただけました。ありがてえ!
 
 
 
なんでしょう、脳的視界に没入していく感覚?とても面白かったです。
が、まだ坐禅ができたかというとそうではない。
  
おお、私はあの「ザゼン」をやっているぞ。と、「ザゼンをやっている自分」をどこかから見ている自分。 
それは「体験」でしかなく、「経験」ではないのです。
何が違うのかって、しらんけど、
 
 うーん西田幾多郎センセイ。
 
ま、はじめからうまくできたら苦労しませんわな
もうちょっと頑張ってみますぅ~
 
 
  
なんにせよ朝七時の枯山水は最高でございました。
 
やっぱり人がいない場所は最高ですね!!!!!
基本的に人間は嫌いです!人間は大好きですけど!!!いやどっちやねん。どっちもやねん。
 
 
 
 
 
ほっほっほ 
スーパーモジャモジャタイムだよっ★★★
 
 
自分の両手を広げた範囲以上のことは、手に負えない。そらそーだ。
  
 
 
輪郭によって輪郭を描くのではない。
 
他人との交わりによってしか自己を描くことはできない。
 
図によって地を描くのではなく
地によって図を描く。
  
 
ペロンチョポン。
 
しー ゆー ねくすと たぁいむ

20180415 尊敬と尊重についての所感 その301928109581

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ほんとうに、心の底から、相手と関わる。
真正面から向き合う。
都合で振り回さない、振り回されない。
役割を押し付けない。
 
求めない。
与えない。
 
純然たる好意を、純粋なる行為でもって還元する。
 
してあげるのではなく、したいからするのだ。
その行為に見返りは必要ない。
 
 
自身のやるべき事を見据える。
相手のやるべき事はほうっておく。
 
 
ある人との【関係性】を、他のだれかに説明するのはとても難しい。
冗談も、約束も、気まずさも、気楽さも、
その人と過ごす時間のすべてをひっくるめて【関係性】と呼ぶ。
その時間を同期できない以上、乏しい語彙で第三者に説明したところで伝わるわけがないのだ。
 
 
「相手を理解しようとする」のは、
実は相手に対する最大の侮辱なのではないだろうか。
「いま現在」自分が享受している相手の情報、その「内包している過去も未来も」、
自分のごくちっぽけな認識の範疇におさめてしまって、
判断のものさしで支配してしまおうというのだから。
 
相手の存在の、その奥にあるものを、見据えて、ほうっておく。
 
自分は自分のやるべき事をやるのみである。
 

 

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